自立=寂しい・冷たい…それ本当?

「自立したい」と妻が口にしたとき、夫はどう感じるんだろう。
寂しい? 冷たい? 夫婦は支え合うべきだろって思われるのかな。
結婚したんだから、いい妻でいなきゃ。
いい母でいなきゃ。夫を立てなきゃ。
そんな“役割”の呪いみたいなものが、いつの間にか私たちを縛っている。
でも、本当にそうなんだろうか。
寄りかかり合うことが夫婦の理想みたいに言われるけれど、
実際は——お互いに依存しすぎる方が、
かえって幸せから遠ざかってしまうこともある。
私が思う“自立”は、
誰とも関わらず孤独に生きることじゃない。
一人の人間として、
自分の人生を選べるだけの選択肢を持つこと。
支えてもらうことを前提にしないだけで、
本当に大切な人を大切にできる余白が生まれる。
誰かの好意に依存しない幸せ”という生き方
「自立」というと、全部を一人で背負うことだと思われがちだけれど、実はそうじゃない。
誰にも頼らず生きることではなくて、
“助けてもらうことを前提にしない”というだけの話だ。
今の私は専業主婦で、経済面では夫に依存している部分がある。
その一方で、家事の大半は私が担っていて、夫は洗濯機の操作すら知らない。
同じ家に住んでいるのに、一方だけが生活を支えているような感覚になる瞬間がある。
でもそれは、何も特別な話じゃない。
多くの家庭がそうやって、お互いの「できること」と「できないこと」を
なんとなく押しつけ合いながら成り立っている。
問題なのは——
“どちらか一方が依存しすぎると、心のバランスが崩れてしまう”ということ。
私が経済的に自立していない今の状態は、
極端にいえば、夫がいなくなれば生きていけないということでもある。
そうなると、無意識に心の拠り所が夫だけになってしまい、
それがやがて、
「どうしてあんな買い物をするの?」
「なんで私ばかり我慢してるの?」
——そんなふうに相手を縛りつける感情にもつながっていく。
でもそれって、
相手が悪いからではなく、
依存している側もされている側も、どちらも苦しくなってしまう構造なんだと思う。
だからこそ、私は“誰かの好意だけに依存しないで生きる力”を持ちたいと思った。
それは強がりではなく、ただお互いを大切にするための土台なのだ。
「自分で自分を幸せにできる人」は人生に強い
「自分で自分の機嫌をとれる人」は、どんな環境でも折れにくい。
そしてそのためには、やっぱり“自分で生活を支えられる力”が必要なのだと思う。
たとえば、夫が仕事で疲れていて、少し荒れた態度を取る日があるとする。
本来なら、人の機嫌と自分の機嫌は別のもの。
でも、今の私は経済的に夫に依存しているから——
「私の掃除が足りなかった?ご飯の味が気に入らなかった?」
「何がいけなかったんだろう…」
と、必要以上に自分を責めてしまう。
夫が落ち込んでいると私まで落ち込むし、
夫が機嫌よくしていないと、家全体がギスギスしてしまう。
それは支え合いというより、相手の感情に振り回されている状態に近い。
極端にいえば、夫が働けなくなったら私は困る。
だから無意識に、自分の意見を封じてでも、
夫の機嫌を取ってしまう。
これって、
私の人生のハンドルを夫に預けてしまっているということでもある。
でも、もし私が月に数万円でも自力で稼げたら——
きっと世界は少し変わる。
「今日は夫の機嫌が悪いなら、そっとしておこう。
娘とお惣菜を買って、気楽に過ごそうかな。」
そんな “逃げ道”も“選択肢”も持てる自分 になれる。
自分で自分を幸せにできる力があるだけで、
他人の機嫌に飲み込まれず、心に余裕を持って生きられるようになる。
夫婦の形は1つじゃない。自分の人生のハンドルを握るということ
夫婦として暮らしているのに、
“自分の人生のハンドルが自分の手にない感覚”に、ふと気づくことがある。
体調が悪い日も、少し疲れた日も、
「夫は働いてくれているんだから、私が頑張らなきゃ」と
全部ひとりで抱え込んでしまう。
それでも掃除が行き届いていないと夫に指摘され、
結局は夫が掃除機をかけてくれることもある。
そのたびに——
「専業主婦なのに家事も完璧にできない私はダメなんだ」
「私の不甲斐なさが、夫の負担になっている」
そんな気持ちが胸を締めつける。
気づけば今の私は、
“夫の人生に付属している存在”のように生きていた。
夫が言うことは、たとえ違和感があっても、
一対一で話すと「やっぱり夫が正しいのかもしれない」と思ってしまう。
自分の意見や感覚を押し込めることがいつの間にか癖になっていた。
もちろん、共同生活においてお互いの我慢や歩み寄りは必要だ。
夫だって、私には見えないところでたくさん我慢しているはずだ。
でも——
“話し合いもできずに、一方だけが息苦しさを抱えている”
これはやっぱり健全な形とはいえない。
夫婦の形は、ひとつじゃない。
依存し合う関係もあれば、支え合う関係もある。
でも私は、自分の人生のハンドルだけはしっかり自分で握りたい。
そうしなければ、
どこへ向かうかすら、自分で決められないから。
お金と生活力があれば、心の余裕が生まれる理由
お金と生活力があると、心に余裕が生まれる——
それは、決して贅沢をしたいからではなく、
「自分の人生を自分で選べる」という感覚が手に入るから。
今の私が苦しいのは、
生活のすべてが“夫の状況”に左右されてしまうからだと思う。
夫が機嫌の悪い日は、家の空気まで張りつめる。
家事の出来や子育ての進み具合に敏感になり、
「迷惑をかけないように」「嫌われないように」
と無意識に自分を追い詰めてしまう。
本当は、
疲れた日には「今日は無理かも」と言ってもいいはずなのに、
弱音を吐くことすら避けてしまう。
なぜなら——
もし夫に見捨てられたら、私は生きていけない。
そう思ってしまうほど、経済的に依存しているから。
でももし、私に自分で稼ぐ力があったら。
「今日は体調が悪いから、無理しない」
「娘と簡単なお惣菜で済ませよう」
「夫の機嫌が悪い日は距離を置こう」
——そんな小さな選択を、自分の意思でできるようになる。
それだけで、
家の雰囲気や人間関係への“過度な同調”から解放されるし、
他人の感情に振り回されない心の余裕が生まれる。
お金が欲しいわけじゃない。贅沢がしたいわけでもない。
ただ、
自分の人生の主導権を取り戻したい。
そのための土台が「経済力」なんだと思う。
自立は“逃げ”ではなく“選択”。私が自立したい本当の理由
自立したい——そう言うと、
「逃げたいだけなんじゃない?」と言われることもある。
でも私は、自立とは“逃げ”ではなく、
自分の人生を自分の手で選び直すための行為だと思っている。
性格が違いすぎて無理だと思う日があっても、
もう少しだけ歩み寄ってみようと思える日があってもいい。
どちらを選ぶのも本来は自由なはずなのに、
今の私は経済的に夫に依存しているから、その選択すらできない。
本当は都会に住んでみたい。
自分のために時間を使って習い事もしてみたい。
小さな買い物にすら遠慮しない生活をしてみたい。
でも、今の私は田舎で車も運転できず、
物理的にも精神的にも“どこにも行けない”状態だ。
閉塞感があるのは、当たり前だと思った。
その息苦しさは少しずつイライラへと形を変え、
「私だって頑張ってるのに」「どうして私ばかり我慢してるの?」という
小さな不満が積み重なっていく。
そしてふと気づいた。
私は夫に依存しているせいで、
自分の人生を自分で選べる感覚を失っていたんだ。
選択肢がないと、人はこんなにも苦しくなる。
だから私は自立したい。
誰かを見返すためでも、誰かを責めたいからでもない。
自分の人生に選択肢を取り戻し、
娘にも、未来の自分にも、胸を張れる生き方をしたいから。
——あなたは今、誰のために生きていますか?
——そしてもし、自分の力で立てるようになったとしたら。
その先に、どんな未来を描きますか?


コメント